ANN's espoir ecole de Ballet
【楽しく踊って綺麗な体】
フリーランスで活動
退団後、全国のバレエ教室から指導と出演依頼をたくさんいただいて、週末は本番以外ほとんど東京に居ない生活でしたが、私を必要としてくださることが嬉しくて嬉しくて、充実感溢れる毎日を過ごしていました。


チャイコフスキー パ ド ドゥ




相模原市の セェリ バレエ アカデミー では退団当初より団員クラスを持たせていただき、更に公演では主役を務めさせていただきました。


人生初の "白鳥の湖" 全幕
オデット & オディール を踊らせていただきました。




"パキータ" エトワール



"コッペリ" 全幕 より 第2幕




"ライモンダ"



これは地方の教え先の発表会で
"海賊" よりグラン パ ド ドゥ



まだまだたくさん舞台に立たせていただきましたが写真はこの辺で。


フリーランスで大変だったことがあります。


それは、フリーランスなので指導してくださる先生がいませんでした。


舞台はたくさんいただくのですが演目の中には初めて踊る役もたくさんあり、自分で練習はしますが所詮私は踊りながら鏡をチェックしたりビデオを撮り客観的になるべく見れるようにしました。



ビデオを見て、 ヒャーーッ こんなになっているのか!∑(゚Д゚) とびっくりすることも。



お仕事先の先生方は、私がゲストのため厳しく指導はしてくださいません。


そこが一番キツかったです。


キツい事もあったけど、役柄を自分の解釈で存分に表現出来ること、リハーサルのたびに新たな発見が山ほど見つかったり、無限の可能性を全てチャレンジ出来る環境は表現者として最高の喜びでした。



☆aki
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最高の経験 〜 退団
そんなこんなで、

「クセがなく(踊りに)可能性に溢れているからこのまま頑張りなさい!」

と言っていただいた言葉を信じて頑張りました。


新国立劇場バレエ団に入団し、"全幕の創り上げ方" を体験し、本当にバレエは奥が深いな〜 と 可能性は無限 だし、これこそが【総合芸術】なんだな!と改めてバレエの素晴らしさを再確認しました。


眠れる森の美女、くるみ割り人形、白鳥の湖、ドンキホーテ、ジゼル はたしかキーロフ版だったのでキーロフバレエ団からワガノワメソッドでの振り付け指導でした。


ラ・シルフィードはデンマーク王立バレエ団から直々にブルノンビルのメソッドで振り付け指導。


シンデレラ、ペトルーシュカ はロイヤル版でしたのでイギリスロイヤルバレエ団より振り付け指導。


テーマとヴァリエーション はNYCB からバランシンのメソッドで振り付け指導。


それぞれ、どこのバージョンの演目かにより先生が来日し、メソッドからの振り付け指導を直々にいただきました。


これは新国立劇場バレエ団だから経験出来た本当に貴重な貴重な経験です。


テーマとヴァリエーション
大好きなバランシン。

最高に幸せでした!


それぞれメソッドに基づき、マイムや動きの意味、音楽の使い方、空間の使い方、目に見えない感覚のものまでもたくさん学ばせていただきました。


どんな役も全てに理由があり、自分の居ることの意味を見つけ毎回踊ることが出来ていました。


が、3年目のある日のリハーサル中、
バレエミストレスの方に

「根岸さん! 貴方の個性はいらないの! 必要ないの‼︎ 主役を喰わないで‼︎‼︎」

と、眉間にシワを寄せて不機嫌に言われました。


言われた意味が良くわからないまま、 「私はどうすれば良いのか? どう踊ったらいいのか?」 とそれからずっとモヤモヤ毎日を過ごしていました。


そんな気持ちでバレエをやっていて楽しいわけもなくて、毎日が不完全燃焼でした。


貴方の個性はいらない、必要ない…


この言葉だけがグルグルと頭の中をまわり続けました。


すごく悲しくて、ただただ辛かったです。


そして、決断の時は来ました。


次期契約です。


心は決まっていました。


「私の個性を必要としてくれるところで踊ろう!」


なので、契約更新はせずマル3年お世話になり新国立劇場バレエ団を退団しました。


短かったけど、3年分以上の経験が出来たと思います。


新国立劇場バレエ団に在籍中は、バレエ団以外でのお仕事もたくさんやらせていただきました。


発表会や公演のゲスト出演やそれに伴う指導、コンクールのヴァリエーションの指導や個人レッスン など。


すごくいっぱいお仕事させていただいていたのに写真がほとんどないのが残念です。


退団後はフリーランスで引き続きお仕事をさせていただきました。


初めての 「瀕死の白鳥」


私はどちらかというと白い衣裳より キトリ
や オディール のように元気な踊りが得意だったので、瀕死の白鳥 の依頼をいただいて正直不安でした(´⊙ω⊙`)


本番は 瀕死 ならぬ "必死の白鳥" でした。


こちらは オーロラ。



フリーランスは自分で営業し自分でお仕事を取り自分で全てを管理しなければならなくて大変でしたが、バレエ団時代とはまた違う充実感ですごく毎日が楽しかった。



☆aki
プロのバレエリーナとして始動開始
最年少で、しかもソリストとして奇跡的に入団することが出来て、今まで辛いこともたくさんあったけどバレエを辞めずに続けていて本当に良かった ‼ と思えました。


ソリストの他のメンバーはというと、みんな小さい頃からコンクールで1位やグランプリやゴールドメダル等々たくさん受賞されており、このオーディションギリギリまで海外のバレエ団で活躍されてるなど、まさにバレエ界のエリートしかいませんでした。


そんな中私はというと、上位受賞もどこかのバレエ団で主役を踊った経歴もありませんでした。
ましてや、バレエ界の権力者のバックアップも一切なくて、「どうして私がソリストとして入団出来たのか?」 謎だったので、上の方に聞きにいきました。

すると、 『クセがなく(踊りに)可能性に溢れているのでこのまま頑張りなさい』 と。


純粋に実力を評価されていたことがものすごく嬉しかった。


毎朝10時からトレーニングがあり、その後リハーサルが17時半までありました。


こけら落とし公演の【眠れる森の美女】 では 元気の精 と 白い子猫 の役をいただきました。

森下洋子さん、清水哲太郎さん、吉田都さん、熊川哲也さん、ディアナ・ビシニョーワさん をゲストに迎え、もちろんですが一緒にリハーサル出来、最高に幸せでした。

吉田都さんとは4歳の発表会以来、16年振りに同じ舞台で踊ることが出来ました。

なんと、都さんにご挨拶したところ4歳だった私を覚えててくださいました。

緊張して迎えた初日は4階席まである大きくて立派な舞台で思いっきり踊り、たくさんの拍手にブラボーの声援を受けた時、【これが私の夢だったお仕事なんだ!!】 と感動したことを今でも鮮明に覚えています。


舞台はとても華やかです。
綺麗なお衣裳に身を包み、素敵にメイクアップし、スポットライトを浴び、最後は観客からの割れんばかりの拍手と声援。


きっとほとんどの方は、「バレリーナってお姫さまみたいで素敵だな~」 と。

もちろん間違いではありません。

だって、舞台上ではお客様に楽しんでいただけるように、そのように創り上げていますから。

その華やかな表舞台を創る裏側は、あの華やかな舞台からは想像をつかないほど過酷な世界です。

舞台に上がる時はプロでも誰でも緊張します。

だって、数えきれないたくさんの観客が自分に注目し、極度の緊張状態で100%の力を発揮したい!する!と思って踊るんです。

本番は1度きり。

本番で失敗しないように何度も何度も練習します。

トゥシューズを長い時間履いていると足の指が剥け血だらけになり爪が死んで剥がれることもあります。

痛いけど、痛いからって練習はやめません。出来るようになるまで頑張ります。

新国立劇場バレエ団のレッスンは常にどなたかが見学にいらしたり、毎日がオーディションでした。
気が休まる時はありません。

今までのように、〝自分が楽しむバレエ” とはまるで違うバレエでした。

楽しむのは観客!
バレリーナは、楽しんでくださったお客さんからいただくたくさんの拍手を聞いた時、
『頑張って良かった!』 とやっとホッとでき、また次も頑張ろう!と思えるです。

バレエ団の他の皆さんはやっぱりライバル感が強かった記憶があります。

みんな人生をかけて来ていますから当たり前ですね。

もちろん仲良く楽しそうに話をすることはあります!が、お友達を作りに行ってるわけではないわけで、配役発表の時はピリピリした空気感が走っていました。

本当に毎日痛くて辛くて苦しい!さらに孤独。

この時期は、誰のために、何のためにバレエをやっているのか?を毎日のように考え自分に言い続けていました。

この様な状況でも何とか頑張れていたのは、厳しくて辛かったけどやっぱり国立バレエスタジオの石沢先生のご指導あってこそだな!とやっとやっと石沢先生の厳しいレッスンに心から感謝し、毎日踊るこが出来ました。


白い子猫


小嶋直也くんと
ドンキホーテの パ ド ドゥ





☆aki
留学 → 就職
結局、すぐに留学はせず日本でバレエの歴史とか作品や時代背景、キャラクターの成り立ち、解剖学 などなど、独学ですが勉強し始めたら止まらなくなり、気付けば17歳も半分終わっていました。


どのバレエ学校が良いのか?
その学校へ行くメリットは?

色々考えていたら決められなくなっていました。


17歳の夏にウィーンのバレエ学校の先生が来日し講習会をするということで参加したら、その場で「ウィーンへおいで」と言われ、ウィーンですか? ってキョトンとしてしまいました。


色々お話を聞くと学費なども低額だったため選択肢にいれました。


だんだんと留学が先延ばしになった理由は…


日本はバレエ学校が当時なかったので民間の個人のバレエ教室でバレエを習い、ある年齢になるとだいたいみんなコンクールへ出て競い合い、<小さいのにすごい> とか人より優れていなければとバレエは芸術という事が薄れテクニックに走る傾向にあると思います。(当時は特に)


だけど、日本以外のバレエ学校は身体的成長過程を重視し、関節がある程度定まってからトゥシューズを履き、卒業(17歳くらい?)に合わせて身体の成長、表現力、テクニック、を仕上げて行きます。


私の様に5歳でトゥシューズを履き2年生でピルエットダブル、3年生で32回転フェッテ なんて絶対に絶対にありえません。


だから、どこのバレエ学校を見ても当時の同い年の子が日々やっているレッスンでは足りない!と思いました。


でも自分の求めているレッスンをしている学校なんてどこもありませんでした。


そんなこんなでグズグズしてる時、もう一度実際ヨーロッパへ行き数件バレエ学校を見学しよう!と出発します。


ウィーン、ロンドン3 校へ行きました。


その前に行ったハンブルグ、ハーグも選択肢に入れて。


結果、どこも行きたいバレエ学校はありませんでした。


が、なぜ留学したいか?もう一度考えると、勉強してプロのバレリーナになりたいから! ですよね。


ウィーンへ行った時にウィーンオペラ座のジゼルを観ました。


1幕もとても素敵でしたが、2幕を観た時 言葉を失い涙が頬を伝いました。


バレエを観て涙が出るほど感動したのは初めてでした。


それまではダンサーの良い所悪い所、私だったらこう踊る とか 衣裳がヘン とかダンサー目線でしか観たことがなかったのだけど、ウィーンのジゼルは観客としてグイグイ引き込まれ、まるで本物の森の中でウィリー達に囲まれジゼルの悲しみと切なさと愛を体感したようでした。


装置や幕の配色や印影、ウィリーの衣裳のチュール1枚1枚に命があるような…


このジゼルを観た時に、この舞台に立ちたい! と思い、ウィーンのバレエ学校へ留学を決めるのでした。


実際は18歳で出発しました。


出発まではウィーンの先生と2回くらい電話で話しただけでした。笑


私… 片言の英語で
「アキです。留学したいです!」


先生… 片言の日本語で
「来てくださ〜い」


みたいなやり取り。


今考えても、このやり取りだけで良く行けたな… と。


ウィーンへ到着してすぐに(後から知ったけど) 20人くらいの先生方の前でレッスンして、1人づつ名前を呼ばれました。


どうやらそれは、入学試験だったとか。笑


30人くらい受けて、唯一私一人が年間スカラシップを受けれたらしいです。


なぜこんなに状況を理解していないかというと、ウィーンはドイツ語でした。(英語が通じないほど)


まぁまぁまぁまぁ、
良くわかっていませんでしたが、
良かった!


バレエ学校には日本2名しかおらず、ソノコちゃんと。

クラスは8年生までありましたが、私は7年生に入りました。


7年生の担任が、日本で講習会をしてくれた先生だったから。


私が想像していたバレエ学校生活とか全く違いました。


ウィーンは芸術の都 と言われるほどなのでオーストリアを代表してウィーンのバレエ学校生は街で何か模様し物がある度に余興として踊るため、1週間の時間割りは朝のクラシックバレエのレッスン、コンテンポラリー は毎日授業あるけど、3時間目からは週末の踊りのリハーサルでだいたい休講になってました。


実際、私が留学前に独学で勉強していた歴史や解剖学やその他色々の方がよっぽど学べていました。


やはり、出発前に思っていたとおり、まず32回転フェッテなんてクラスで誰も出来ない、私が回ると クラス中が ブラボー‼︎ っていうほどでした。


舞台の度に真ん中を踊らせていただく。


とても嬉しいことだけど、正直学ぶ物がなくて、違う意味でキツかった。


これはスクールパフォーマンスのプログラム。

"くるみ割り人形" でした。


本来、8年生が 金平糖の女王、7年生は雪のシーン以降のクララ、6年生は1幕のクララ。と毎年決まっていたそうですが、"8年生に金平糖の女王を踊れる子がいないから"
ってことで 7年生の私が金平糖の女王いただきました。

プログラムにせっかく名前を載せていただいたのに、Aki Nagishi って… (´⊙ω⊙`)


スクールパフォーマンスは5回公演だったのですが、金平糖の以外にも アラビア の踊りを踊りました。


実はこのスクールパフォーマンスの観にいらしていたウィーン近郊?(定かでない)カンパニーから3件のオファーをいただきましたが、残念ながら3件ともクラシックのカンパニーではなかったのでお断りしました。



話によるとウィーンはこの年大寒波だったようで軽く−20℃ 鼻毛たと眉毛の凍る世界を体験出来ました。


スクールパフォーマンスが終わり、ヨーロッパのバレエ団のオーディションシーズンが来ました。


そこで衝撃的な現実を目の当たりにします。


それは、各バレエ団のオーディション要項にハッキリと、

Keine Japanisch
日本人 お断り

と書かれていました。


ガビ〜〜ン!


運悪く、私の憧れのオペラ座も私がウィーンに留学と同時期に日本人の方が入団されて、「同じキャラクター(黄色人種)は一人で十分」と当時の芸術監督さんが言ってました。


てことは、私はウィーンに居ても先がない! ってことに気付きました。


てことなら美味しい物食べよ〜
(((o(*゚▽゚*)o)))♡

ウィーンはケーキが美味しくて❤︎


まだバレエを捨てたわけではありません!


なんとバレエ学校の生徒はオペラ座の公演を1回 ¥300- で毎回観れる特典(立ち見だけど1階ど真ん中)フルに活用。


素晴らしい特典。


バレエ学校はそんなこんなで相変わらず学ぶことがあるんだか?ないんだか? オペラ座には入れない! じゃ 時間がもったいないからとっとと日本か〜えろ。


って1年くらいで帰国〜


留学して親元から離れ、しかも言葉も通じず不安もたくさんあったけど、バレエは言葉いらないし、バレエを学びに行ったのに努力しなくても主役がもらえる環境はその時の私には不必要だったので、せっかくいただいたスカラシップだったけど、帰国を決めました。


日本に帰国した時は身体が緩みまくってて、踊りもだらしなくなっていて、「これが留学の成果か…」とガックリもしたけど、それを取り戻すべく移籍を決意。


牧阿佐美バレエ団 系列のバレエ教室。


3ヶ月で身体がみるみる細くなり、ポジションがしっかり入るようになり踊りにキレが出ました。


そして、20歳の時、新国立劇場バレエ団の第1期オーディション があり、ダメ元で書類を出しました。


そしたら、最終選考まで残り、舞台上でヴァリエーションを踊ることになり、ずっと踊りたかった エスメラルダ を踊りました。


最終選考に残っている顔触れはまさにバレエ界のスターしかいませんでした。


その中になぜワタシ? と本気で思いました。


600名近い応募者の中から、だった11名のソリストに選ばれました。


ミラクル以外の何者でもないです。


この写真はオーディション時の物じゃないけど、エスメラルダのVa は私の記念すべき踊りなのでHPの表紙に使ってます。

私はきっとこの時に一生分の運を使い切ったと思います。


つづく…


☆aki
プロ とは エンターテイナー
15歳でローザンヌ国際バレエコンクール〜ハンブルグバレエ学校〜ハーグバレエ学校(オランダ) へ行き、世界の同年代を間近で見て感じることが出来て、私の今頑張っている事(バレエのこだわり)や知識・経験や考え方の幼さとか、あらゆるものが "的はずれ" の様に感じて帰国しました。


中学を卒業して同年の9月からバレエ学校留学… なんて簡単に考えていたけれど、今のまま留学(親元から離れて)自分はちゃんとやって行けるのだろうか? と疑問を持ち始め、あれだけ行きたかった海外バレエ学校への留学にブレーキがかかりました。


私は小さい頃からクラシックバレエしか習って来ていません。


しかし、海外のバレエダンサーはコンテンポラリーやキャラクターダンス、ジャズダンス などなど、クラシックバレエ以外のダンスも踊れなければ需要がないことを知りました。


現地へ行っちゃえば何とかなるだろ〜 なんて甘く考えていましたが、高い費用を親に負担させて無駄にさせたくなかったので留学の延期という選択肢も考えながら、留学前に出来る事は勉強しておこう!と思うのでした。


まずクラシックバレエの歴史から学びました。


当時はインターネットなんて便利な物はなく、近所の大きな図書館に通いました。


そしたら、えーーっ!そうだったのか‼︎ と目から鱗の情報がた〜くさんあり、私は今までバレエが何かを知らずにバレエを踊り仕事にしたいと言っていたのか….°(ಗдಗ。)°. と恥ずかしくなりました。笑


流派のルーツから、良く知られている踊りがどうやって振り付けられたか、動きの意味、総合芸術とは… 書ききれないけど、本読むの好きじゃないけど、夢中になってたくさんの本を読み、たくさんの古い映像を照らし合わせてみたり、解剖学(体の使い方)までもバレエにまつわる色々を勉強しました。


一般の高校生にならず、大好きなバレエの勉強が出来てこの上ない幸せを感じていました。


あれだけ舞台が大好きでコンクールにも山ほど参加していた私ですが、ローザンヌ後は自分のちっぽけさを思い知り、「人よりも優れた物がないならば舞台に上がるな!」と自分に言いました。


留学するのにお金も必要ってことで色々アルバイトもしました。


某美術学校の絵のモデルをやったとき。

髪短いですね。笑


絵のモデル以外にも、イタリア、ボローニャ歌劇が来日公演した時はバレエシーンで踊らせていただきました。


ミュージカルにも出させていただき、歌って踊って、今までやって来たバレエとはちょっと違った舞台をたくさん経験させていただいた貴重な時期でした。


自分の稼いだお金で初めて観に行った舞台は アルヴィン・エイリー の来日公演でした。


ニューヨークにあるコンテンポラリーのカンパニーで 黒人賛歌 などの作品が有名です。


自分にはないリズム感や、眼に映る全てがカッコよくて衝撃を受け 1人 ブラボーを連呼した記憶があります。笑


この時期は髪を短くしたり、今まで守り通して来た "バレリーナはお団子が出来なきゃ" とか、"エレガントでいなきゃ" とか正直どうでも良くなってしまったのでした。


だって、どんなにお団子綺麗に結って ザ・バレリーナ って見た目でも踊りが下手クソじゃ何の意味もない! と。


私の中の 下手クソ とは、ピルエットたくさん回れるとか、高く飛べるとか、そんなものはどうでも良くて、 「心」 あるか? って部分でした。


もちろん今も。


アーティストである以上、観客の心を動かすのが仕事!だと認識していました。


まぁいいや。


独学ですが、勉強した甲斐はありました。


心がなければただの体操。


だから、私は ジョージ・バランシン 又の名を ミスター•B の作品に憧れました。


ミスター・B はニューヨーク シティ バレエ でたくさんの振り付けをした方で、当時は白鳥の湖やくるみ割り人形や眠れる森の美女などの古典がポピュラーだったのに対しネオクラシック という試みをしました。


女性らしさ、音楽性、表現力、バレエテクニック を融合させ、難易度のもっとも高い踊りを振り付けてました。


ミスター•B の作品に憧れて、擦り切れるほどビデオを見ていつか踊れる日のために振り付けや音の使い方を完全コピーしてました。


そのチャンスはアッサリと訪れたのです。


16歳 春。


チャイコフスキー•パ•ド•ドゥ



この舞台を満足行くものにするために、3週間で6キロのダイエットをしました。笑


チャイコフスキーの音楽も振り付けも全てが好きでリハーサルが出来ることが幸せでたまりませんでした。


この舞台は今思い返しても、16歳ながら頑張ったな〜 なんて思います。


これまでバレエひと筋で遊びらしい遊びをして来ていませんでしたが、年齢と共に華やかになっていきました。笑

2人ともバレエのお友達だけど、プライベートでも買い物行ったり、井の頭公園をおしゃべりしながら散歩したり、お互いに刺激しあいながら過ごした仲間です。


今でも仲良しです❤︎


いよいよ次回は留学〜



☆aki